放光寺の由来       



片岡山 放光寺 (黄檗宗
 



御詠歌

  月も日も隈なき空は放光寺

      霧はれ渡る片岡の山

 

 放光寺は現に王寺小学校の後方にあるが、往時は栄えて、前方の王寺小学校の敷地はその遺跡である。当寺はもと片岡僧寺また片岡王寺とも称せ
られ、敏達天皇の皇后の発願により、聖徳太子が建立したといわれる。放光寺の由緒について伝わっている『放光寺古今縁起』によると、当寺は敏達天
皇の勅願所として同帝第三皇女片岡姫王が建立し、用明・推古・聖徳太子・舒明・孝徳の各天皇や太子、奈良時代には聖武天皇がそれぞれ立願興隆
につくされた。同舎は金堂・講堂・食堂・五重塔・経蔵・鐘楼・三面僧房・浴室・四方の諸門・廻廊など完備して結構荘麗な大伽藍と記している。

 なお『古今縁起』によるに、永承元年(1047年)六月、雷火金堂に禍し、廻廊・東中門・南大門を類焼し、康平三年(1060年)に興福寺衆徒のために洪鐘
を奪いとられ、永保年中、五重塔朽損して三重に縮め、保安三年(1122年)十二宇の僧房朽損甚だしいので縮めて十二間僧房とした。以来寺運は衰退
した。

 建久年中に俗別当沙弥阿妙が復興を企てたが成果を見なかった。 『古今縁起』の著者である僧審盛が在住したころには寺域荒廃甚だしく、彼は復旧
を立願し、ひろく勧進に務めたが、竣工を見ないままに歿した。応安四年(1371年)八月十日金堂が立柱し、至徳元年(1384年)にようやく再建供養せら
れた。しかし、やがて戦国の乱世になり、元亀三年(1572年)松永久秀の兵火を蒙り、再び焼け落ち、以来寺跡を遺すのみとなった。

 その後、元禄の頃となり当時禅宗の一派として中国より伝来した黄檗宗の名僧鐡牛禅師により再興され、以来黄檗宗の僧侶代々当寺に住し法燈が
再び片岡の里に光を放ったが、明治維新の廃仏毀釈は、またまた当寺に打撃をうけた。現今の本堂は、僅かに名藍の名残として昔日の片影をとどめる
ものである。

 現在当寺では、毎年七月十七日に「大施餓鬼法要」が営まれ、 『十七夜』として親しまれている。

 

                   片岡山 放光寺小住 豊島善光




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